マンガで読める『夢酔独言』

マンガで読める『夢酔独言』

勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

勝小吉の兄:男谷彦四郎さん・松坂三郎右衛門さんの代官任期と、『夢酔独言』での記述の比較

 勝小吉の25歳年上の兄・男谷彦四郎(西暦1777~1840)。信濃中之条越後水原代官をしていました。彦四郎さんは『夢酔独言』にも度々登場し、代官として詰めきり(赴任)したことにも触れられています。

 ところが、『夢酔独言』の記述と、実際の彦四郎さんの代官任期を照らし合わせてみると、ズレがあるようなのです。

 そこで、この記事では、資料に残っている彦四郎さんと、後に越後水原代官になった小吉の次兄・松坂三郎右衛門さんの実際の代官を勤めた期間と、『夢酔独言』での記述を比較し、『夢酔独言』内のエピソードがあった実際の時期を割り出してみよう!という検証をします。

 

 

 

・男谷彦四郎さん・松坂三郎右衛門さんの代官赴任期間

信濃中之条(男谷彦四郎さん)…文化十一年(西暦1814)~文政四年(西暦1821)

小吉13~20歳

 

②越後水原(男谷彦四郎さん)…文政四年(西暦1821)七月~文政六年(西暦1823)七月

小吉20~22歳

 

③越後水原(松坂三郎右衛門さん)…天保七年(西暦1836)七月~天保九年(西暦1838)八月

小吉35~37歳

 

 

 

 

 

 

※越後水原代官の赴任期間については、PHP研究所 勝部真長 新装版『勝海舟 上』を元にしています。信濃中之条については、複数のネット上の情報を元にしました。手持ちの資料に、書いてあるのがないんだもの…。

 

 

 

・『夢酔独言』中の男谷彦四郎さんと松坂三郎右衛門さんの記述

※以下、全てはやおきによる現代仮名遣いで引用

 

a.~亀松5歳(~文化三年/西暦1806)

兄貴は別宅していたから、何も知らなんだ。」

 男谷彦四郎さんは、この時代官はしていない。江戸の中で別宅していたと推測できます。

 

 

 

b.

「…この親父(利平次)も久しく勤めて、の代には信濃国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍は、皆中間より取り立て、信州五ヶ年詰めの後、江戸にて残らず御家人の株を買ってやられたが、…」

 

 『夢酔独言』に二回登場する、「信州五ヶ年詰め(トータルでの任期は7年)について。文化十一年(西暦1814)~文政元年(西暦1818)、小吉13~17歳。

 「兄の代には」とあるので、この時すでに小吉の父・男谷平蔵さんは隠居していた…のか?小吉が幼い頃には「おやぢが日きんの勤め」とあるから隠居はしてなかったはずだが、小吉が生まれた時点で彦四郎さんは25歳くらいのはずで、まだ家督相続していないのは遅過ぎる気がする。家督を譲っても隠居せず働くとかあり得るのか?そのへんの仕組みにうといから分からない。

 男谷家の用人・利平次も同行したとあるから、この間、利平次は江戸に居なかったと推測できます。

 

 

 

c.小吉12歳(文化十年/西暦1813)

「十二の年、兄貴が世話をして学問を始めたが、林大学頭のところへ連れ行きやったが、…」

兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五ヶ年詰めきりをしたが、三ヶ年目にご機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断りの手紙をやった。そのうえにておれをひどく叱って、禁足をしろと言いおった。」

 

 『夢酔独言』によると、小吉12歳の年が「信州五ヶ年詰めの三ヶ年目のご機嫌伺い」にあたりますが、実際は信州へ赴任する前の年です。

 小吉のようすを見にきたのか、別宅状態から同居になったのかは不明。

 

 

 

d.小吉13歳(文化十一年/西暦1813)

「十三の年の秋、兄貴が信州へ帰ったから、…」

 

 この年、彦四郎さんは信州へ赴任します。

 

 

 

e.小吉16歳(文化四年/西暦1817)

「…金がなくって困っていると、信州の御料所よりお年貢の金が七千両来た。役所へ預りて改めてご金蔵へ納めるのだ。その時、おれに番人を兄貴より言いつけたから、…」

「二、三日経つと、兄貴が怒ったが、いろいろ詮議をしたら、おれが出したと役所の小遣いめが白状しおった故、おれに金を出せとてが責めたが、…」

 

 信州詰めきりの三ヶ年目でもなければ、五ヶ年目でもなく、任期終了の七ヶ年目でもないのに、彦四郎さんが江戸に居るというくだり…ですが、その後に「兄貴と信州へ行った」というくだりがあるので、そのために彦四郎さんは、一時的に江戸へ帰っていたのかもしれません。

 

※考えているうちに、わざわざ「五ヶ年詰めきり」とあるのは、代官任期中でも、定期的に江戸へ帰るのが普通だったからではないか?との見解に至りました。

 

〈2024年4月14日追記〉

 小吉一度目の家出の時期を、小吉の記憶にある14歳の年、文化十二年(西暦1815)ではなく、閏月があった翌年と仮定すると、年貢の金盗った盗らない騒動は小吉17歳の年になり、お兄ちゃんは小吉13歳の年からの信州五ヶ年詰めを終えて江戸に居てもおかしくないんじゃないか?と思いました。ただ、他のエピソードの時期にシワ寄せが来るかもしれませんが…。

 

「この年、兄貴と信州へ行ったが、十一月の末には江戸へ帰った。」

 

 

 

f.小吉18歳(文政二年/西暦1819)

※ひとしきり、彦四郎さんと信州へ行った時の話が続く

「十八の年、また信州へ行ったが、その年は兄貴が気色が悪くって、〈中略〉そのうち江戸でお袋が死んだと知らせてきたから、〈中略〉十一月初めに江戸へ帰った。」

 

 江戸でお義母さんが亡くなったとの知らせが来て、御用を終わらせて江戸へ帰ります。彦四郎さんの信州赴任は、もうしばらく続きます。

 

「この年、またまたと越後蒲原郡水原の陣屋へ行った。〈中略〉それから江戸へ帰ったが、…」

 

 小吉が18歳の年は、まだ彦四郎さんは信州の代官なのですが…。

 18歳の年(あるいは年が明けて19歳の年)に再び信州へ行ったか、後年に越後へ行ったか…。

 小吉が越後へ行った経験はあるようですが、18歳の年に再び信州へ行かなかったとも言えません。ただし、本来越後へ行った時期に「越後へ行った」という記述もありません。どっちだ。

 

※更に考えたところ、その後のくだりで次兄・三郎右衛門さんに越後のことを伝えていることから、小吉が越後へ行ったことは確かで、今回のくだりが20歳の年、越後に行ったことを指しているんではないかと思いました。彦四郎さんのお供をしたのをトータルで数えて「またまた」と表現しているとかで。

※とはいえ、18あるいは19の年に「またまた」信州へ行って、さらに20歳の年に越後へ行ったことをゴッチャにしている可能性もあります。

 

「十八の年に、身躰を持って、の庭の内へ普請をして引き移った。その時、から借金三百両ばかりの証文と家作代を家見にくれた。」

 

 小吉と一緒に信州から帰っていた期間の話と思います。

 

 

 

g.小吉21歳(文政五年/西暦1822)

「…それから通し駕籠で江戸へ帰ったが、親父もも何にも言わぬ故、少し安心して家へ行った。翌日、が呼びによこしたから行ったら、…」

 

 前年7月から越後へ赴任して、翌年3月には江戸へ戻るはずの彦四郎さんが江戸に居る…。

 小吉が20歳の時彦四郎さんと越後へ行って帰ってから、引き続き江戸に居たってことかな…。

 7月頃の話です。

 

 

 

※文政六年(西暦1823)三月、彦四郎さん、越後から江戸へ戻る

 

 

 

h.小吉35歳(天保七年/西暦1836)

※ここから次兄・松坂三郎右衛門さん登場。ひとしきり三郎右衛門さんの話題が続く

「おれが二番目の兄がお代官になったから、…」

 

 松坂三郎右衛門さん、この年7月から代官として越後水原へ赴任します。

 

 

 

i.小吉36歳(天保八年/西暦1837)

「その翌年の春、正月七日御用始めの夜に、何者とも知らず狼藉者が入って、の惣領忠蔵を切り殺したが、…」

 

 漫画では三郎右衛門さんも現場に居合わせていますが、実際は越後水原に居た期間です。

 忠蔵事件絡みで評定所へ行ったメンバーの中にも三郎右衛門さん本人の名前はなく、林町(三郎右衛門さんの家がある)に居てほしいと言ったのも大兄・男谷彦四郎さんなことから、三郎右衛門さんがいなくても成立します。

 

「この年、次の兄が初めて越後へ行く故に、留守を預かった。〈中略〉林町の兄が帰ったから、留守の内のことを書きつけて出してやったら喜んでいた。」

「この暮、林町の松坂三郎右衛門が越後へ行く故、三男の正之助というを気遣う故に、おれが異見をして供に連れて行けと言ったら、〈中略〉それを手紙に書いて送ったが、どうして取り落としたか、が拾って江戸へ持って帰って、大兄へ見せていろいろおれを悪く言ったら、大兄が立腹して、おれを呼びによこした。」

 

 一連のくだりで、ひんぱんに「この年」とか「この暮」といった文言が出てきますが、原作を読み解いたところ、このような時系列になるのではないかと仮説を立てました。

 

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 ①「其翌年の春」の忠蔵殺害事件は、記録が残っているので、天保八年、小吉36歳の出来事で確定。その後の評定所のくだりも、事件後の手続きに絡んだものと推測できます(小吉のことなので、平気で全然違う時期の話を言ってる可能性もなくはないですが)

②「此年、次の兄が始て越後へゆく故に」は、三郎右衛門さんの代官任期初年の天保七年、小吉35歳の年であると推測できます。で、越後へ行ってる間に忠蔵事件が起きた、と。③と同じ時期でないのは、「林町の兄が帰たから、留守の内の事を書付けて出してやつたら悦でいた」という、二人の関係がまだ和やかだったらしいくだりから推測できます。

③「此暮、林町の松坂三郎右衛門が越後へゆく故」は、②の年の暮と推測できます。で、三郎右衛門さんは越後に行ってる間に小吉が書いた手紙を見付け、激怒して江戸へ帰る、と。

 

 

 

j.小吉37歳(天保九年/西暦1838)

「翌年春、姉へ挨拶安心のため、隠居したが、三十七の年だ。」

 

「それからは無極に世の中を駆け回りて、〈中略〉三男の正之助が放蕩者故に兄が困っていると聞いたから、〈中略〉ふた月ばかりで知れて、が吝嗇(りんしょく…ケチ)故に、たいそう怒ったから、…」

 

 「兄が吝嗇故に、たいそう怒った」は、この年8月以降と推測できます。三郎右衛門さんはそのあたりまで江戸に居て、その後越後へ行ったものと思われます。

 その間、島田虎之助さんと知り合ったり、一橋慶昌(初之丞)様が亡くなったりしましたが、それはまた別のお話。

 

 

 

天保九年(西暦1838)八月より、松坂三郎右衛門さん、江戸へ帰る

 

 

 

 以上、男谷彦四郎さん(と松坂三郎右衛門さん)の代官赴任期間と、勝小吉自伝『夢酔独言』での記述の比較でした。

 この検証を経て、漫画での描写が変わったり、別に変らなかったりするかもしれません。