『夢酔独言』 百四十三話 餅を乞う
弘化四年(西暦1847)、蘭日辞書『ヅフ・ハルマ』の写本を始めた麟太郎、25歳。年が明けますが、勝家には餅をこしらえる余裕がありません。
そんな折、妻の養・家岡野家に餅をやると言われ、本所へ出掛ける麟太郎ですが…。
今回のお話は、勝海舟の発言をまとめた『氷川清話』のエピソードを元にしています。
おれが子供の時には、非常に貧乏で、ある年の暮れなどには、どこにも松飾りの用意などしているのに、おれの家では、餅を搗く銭がなかった。ところが本所の親族のもとから、餅をやるから取りに来い、と言ってよこしたので、おれはそれをもらいに行って、風呂敷に包んで背負うて帰る途中で、ちょうど両国橋の上であったが、どうしたはずみか、風呂敷がたちまち破れて、せっかくもらった餅は、みんな地上に落ち散ってしまった。ところがその時は、もはや日は暮れているのに、今のような街燈は無し、道は真っ暗借りで、それを拾おうにも拾うことができなかった。もっとも二つ三つは拾ったが、あまりいまいましかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰ってきたことがあったけ。
はやおきによる現代仮名遣い
これは麟太郎の子供の頃のエピソードとなっていますが、『氷川清話』注釈にある赤坂に引っ越してからの話説を採用しました。
冒頭、麟太郎の妹・順(12歳)と娘の夢(2歳)が興じているのは、「どうどうめぐり」という遊び。二人で手をつないでグルグル回って遊びます。歌が、遅々として進まない麟太郎の写本作業とリンクしているわけですね。
写本には、鳥の羽根を買ってきて焼いて、ペンにして使ったそうです(本人談)。使い慣れた筆でないのは、横文字を描くには不向きだったからでしょうか。
『ヅフ・ハルマ』の写本は、資料によると弘化四年(西暦1847)秋に開始されたようなんですが、さて、年が明けます。極貧生活により、餅も搗けない勝家。そこへ妻・民(27歳)の養家である岡野家から、餅を取りに来るよう言われます。『氷川清話』注釈では「妻の実家」となっているのですが、過去に登場した岡野孫一郎さんを再登場させたかったので、このチョイスとあいなりました。広義には実家だし。
※岡野孫一郎…『夢酔独言』の主人公・勝小吉の家の地主さん。酒好きのダメ当主だが、大川丈助騒動での困りっぷりが生き生きとしててナイス。1コマしか顔を出してませんが、すでに酔ってます。
あとは『氷川清話』の流れそのままです。
いまいましいからって貴重なもらい物のお餅を橋から投げるとは、さすがの自己中っぷりですね。
この橋から食べ物を投げるくだり、九話目で実は小吉が同じことをやっています。小吉はいけ好かない道場の先輩からもらったまんじゅうを捨てるのですが、今回のくだりのオマージュでした。
一方、鶯谷に住む夢酔(小吉)。孫の夢ちゃんのために餅花を買って、しょーもない冗談もいいますが…。
百四十四話に続きます。『ヅフ・ハルマ』の写本の写本もいよいよ完成、麟太郎、2組の写本をどう使う?