マンガで読める『夢酔独言』

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勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

意外と知られていない勝海舟の面白いエピソード11選

意外と知られていない勝海舟の面白いエピソード11選

 

  1月30日は、勝海舟の誕生日です。

 勝海舟といえば、旧幕府側の幕臣で、江戸城無血開城「咸臨丸」坂本龍馬の先生」というキーワードが浮かびます。ですが、それ以上の、エピソードやキャラクターは、実は知らないという方も多いのではないでしょうか。

 この記事では、勝海舟のエピソードの中で、特に知られていなくて、面白いものを紹介します。

 

 

 

 

 

 

一、勝海舟の父親は、息子が生まれる時檻の中にいた

 

 勝海舟の父親・勝小吉は生涯無役の不良旗本で、ケンカ吉原通いばかりしていました。21歳の時、家出して静岡県辺りに潜伏していた小吉は、親戚の男谷精一郎に連れ戻されます。そして自宅に用意されていた座敷牢へ入れられ、息子が3歳になるころ、ようやく外に出されました。小吉は海舟の生まれた瞬間を知らないのです。

 小吉は3歳になる海舟(当時は麟太郎)に家督を譲って隠居しようとして、自分の父親に怒られました。

 

 

 

二、7歳の時、江戸城でスカウトされ、2年間大奥で暮らした

 

  麟太郎が7歳の頃、江戸城の庭を見学に行くのですが、そこでの振る舞いが目に留まり、当時の将軍徳川家斉の孫・初之丞君のお相手として、大奥で2年ほど過ごしました。当時の麟太郎は暴れ者で、女中に叱られることもたびたびだったそう。

また、幕末に大奥での浪費が問題になった時、海舟は大奥へ行ってわざと贅沢をさせ、女中たちに自発的な倹約を促しました。

 

 

 

三、9歳の時、野良犬に金玉を噛まれて死にかけた

 

 9歳で江戸城から実家に戻った麟太郎ですが、塾の通学路で、野良犬に金玉を噛まれ、生死の境をさまよいました。この時熱心に看病したのが、父親の小吉。枕元で刀を抜いて励ましたり、他の者は寄せ付けず、息子を抱いて看病したと、小吉本人が自伝『夢酔独言』で語っています。

 

 

 

四、海軍学校時代、ムリヤリ船で遠出して遭難しかかった

 

 麟太郎は33歳の時、長崎の海軍伝習所に入ります。そこでオランダ語、数学のほか、航海術や造船技術を学びました。

35歳の秋、麟太郎は出来上がったばかりのコットル船遠洋航海を思い立ちます。教師(オランダ海軍のカッテンディーケ)に「天候が良くない」止められるも聞かず、五島列島の辺りまで行きますが、案の定天候が荒れ、船は壊れ、底に穴が開いて沈みかけます。それでも何とか立て直して、翌日帰還しました。

 その時カッテンディーケ先生は、「いい経験をした」と言って笑ったと海舟は語っています。先生、心が広すぎます。

 

 

 

五、咸臨丸でサンフランシスコへ出発した時は病気で、妻に嘘をついて出掛けた

 

 勝海舟といえば咸臨丸(かんりんまる)です。

 勝海舟1860年、38歳の時咸臨丸でサンフランシスコ港を目指して出発しますが、まさに出発の日、海舟は熱病をわずらって、ひどい頭痛で寝込んでいました。ところが「畳の上で犬死にするよりは軍艦の中で死んだほうがまし」と、妻には「ちょっと品川まで行ってくる」と言い残し、そのままサンフランシスコまで行ってしまいました。サンフランシスコに着く頃には、病気もすっかり治っていたそうです。病気で寝込んでいた夫が外出して帰ってこなかったら妻は万が一を心配するでしょうが、そんなのお構いなしです。

 咸臨丸は日本人だけで航行したという逸話がありますが、実際は浦賀で遭難してアメリカへ帰るブルック海軍大尉が同乗していて、彼とアメリカ人水夫に助けられました。ブルック大尉は、「勝麟太郎(海舟)はいつも船酔いしていた」と書き残しています。

 

 

 

六、アメリカ視察の感想を聞かれ、「別に変ったことはない」と答えて上司を怒らせた

 

 サンフランシスコから戻った勝海舟幕府のご老中から「異国ではさぞ変わったことがあっただろう」と聞かれ、「人間のすることは古今東西同じもので、アメリカとて別に変ったことはありません」と答えます。

「そんなはずはない」と食い下がるご老中に、「アメリカでは、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧(れいり=かしこい)でございます。その点ばかりは、我が国と反対のように思います」と答えて叱られました。そりゃそうだ。

 

 

 

七、篤姫と散歩に行ってシャツを買った

 

  海舟は幼い頃大奥で過ごした縁で、天璋院篤姫や、和宮とも親交がありました。篤姫自分の姉と言って、八百善から吉原まで、お供して見せて歩きました。

 篤姫は柔軟な考えの持ち主で、千駄ヶ谷庶民が沸かすお茶を飲めばおいしいからそれがいいと言い、シャツを買ってみて便利ならば愛用し、日傘よりもいいと言ってコウモリ傘を使いました。海舟はそんな篤姫を、ただ褒めておいた、と語っています。

 

 

 

八、「海舟」の号は佐久間象山の書から取ったが、佐久間象山のことは嫌い

 

  勝海舟「海舟」という号にしたのは、佐久間象山の書いた「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」という書がよく出来ていたからだ、と本人が言っています。また、海舟の妹・順佐久間象山の後妻になりました。

 が、海舟自身は、佐久間象山を好評価はしていませんでした。「物知りだが、大袈裟で、威張っていて、顔つきが奇妙だ(ただの悪口…)とこきおろしています。

 ちなみに、順の縁談に佐久間象山を推したのは、母親の信でした。夫(勝小吉)が学問嫌いでほとんど文盲だったので、知識人への憧れがあったのかもしれません。

 

 

 

 
九、静岡が茶葉の産地になったのは海舟のおかげ

 

  明治維新の際、旧幕府側にいた中に、大草太起次郎中条金之助という幕臣がいました。二人は多くの幕臣とともに江戸城切腹するつもりでしたが、勝海舟「今切腹したら犬死にだから、あなたたちは静岡でひっそり暮らしなさい」と言われ、思いとどまりました。

 数年経ち、「金谷という土地がほったらかしになっているから開墾したい」と言う二人に、「それは感心だ」と褒めて、海舟は二人と仲間の旧幕臣たちに仕送りを続けました。

 やがて開墾した土地へを植えて、収穫した茶葉を横浜で取引するようになりました。もうお分かりでしょう、それが、静岡茶の始まりなのです。

 海舟が大草、中条に支援をしていなければ、静岡がお茶の名産地になることはなかったでしょう。最初に江戸城切腹するという時、最終的に止めた海舟ですが、前日には「100人くらい死んだって構いやしない、早速やりなさい」と言ってたんですけどね。

 

 

 

十、わざとボケたふりをして議員や詐欺師を手玉に取っていた   

 

  第一線を退いた海舟は、ほとんど外出せず、赤坂氷川の屋敷の六畳間に引き籠って、訪問客の相手をしていました。初対面の人間はまず脅かして見せ、反応を見て、その人を推し量っていたと言います。すごい性格悪いです。

 そんな海舟も、たまには政府から意見を求められて、議会に出向くこともありました。ところが、出席した海舟は言動が要領を得ず、視線も虚ろ。こりゃ駄目だと帰されます。

 しかし家に帰った海舟は、議会で見聞きしたことを、しっかりと記録していました。

 かの有名な勝海舟のお屋敷には、海舟から金を騙し取ろうという者もやって来ます。そんな相手の話に、海舟は途中まで乗ったふりをして、もう十分という頃合いを見て、「やめにしたらどうだ」と言っていたそうですすごい性格悪いです。

 また、スリを泳がせてみたり、お金を外へ隠して泥棒が見付けるか試したり、食えない爺さんだったのです。 

 

 

 

十一、妻の遺言は「夫と墓は別にしてほしい」

 

   表舞台で活躍していた勝海舟ですが、長崎海軍伝習所にいた頃に知り合った女性との間に男児をもうけたり、女中に女児を生ませて妻の子として育てさせたりと、妻・民にとっては良い夫ではありませんでした。

 民は臨終の際、夫とは別の墓がいい、夭折した息子・小鹿と同じ墓地に葬ってほしい、と言い遺したそうです。夫の墓に入るのが当然とされていた時代です。よっぽど嫌だったのでしょう。

 それから10年後、もういいだろうということで、海舟の墓の横に、民の墓も並べられました。

 

 

 

 こうして見てみると、勝海舟は、真面目な優等生と言うよりは、型破りでクセのある男に思えてきませんか?

 

 また、勝海舟は幅広い人脈をもっていて、土方歳三から西郷隆盛伊藤博文岩崎弥太郎二宮金次郎まで、言葉を交わしたことがあります。

 お気に入りの偉人を調べてみると、勝海舟との交流があったかもしれません。