『夢酔独言』 八十四話 剣術道場の小吉
17歳で剣術を始めた小吉。30歳の現在、大きな試合の行司をしたり、伝授の言い渡しに揉め事の仲裁、世話役として奔走します。
一方、小吉の縄張りでは、奇妙なことが起きて…。
今回のお話は、全編ずっと小吉の「俺は地元ですごかったんだぜ!」自慢です。
要所要所で試合の行司をした、という文が4つ続くんですが、
①藤川近義先生の年廻には、出席が五百八十四人あつたが、其時はおれが一本勝負源平の行司をした。
②赤石孚祐(原作では旧字体です)先生の年忌は、団野でしたが、行司取締はおれだ。
③井上の先(せん)伝兵衛先生の年忌にも、頼て(たのまれて)諸勝負の見分はおれがした。
④男谷の稽古場開にも、おれが取締行司だ。
と、言い回しを変えたり、倒置法をつかったりして、文章が単調にならないように工夫してあります。
お話の中でのメインは小吉30歳の頃なんですが、同じ時期に何回も先生の年忌が来るはずがありません。エピソードひとつひとつの年代は、ばらばらだと考えられます。
そこで気になるのが、「男谷道場の稽古場開き」がいつだったかです。
調べてみると、男谷精一郎信友が麻布狸穴(まみあな)に道場を開いたのは、文政六年(1824)です。ところが、当時21歳の小吉はその頃家出の罰で檻に入れられ、三年後の冬まで出られなかったので、出掛けて行って行司なんか出来るはずがありません。なので、単にお正月明けの稽古場開きを指したのかもしれません。そのわりには、やたら自慢げですね。
精一郎さんは、幕末屈指の剣豪として、我が作業のお供、電子辞書に載ってるぐらいですが、小吉の親戚で、弟の忠次郎と一緒に喧嘩をしたり、道場破りをしたりと、わかい頃はやんちゃをしていました。
のちに小吉のお兄ちゃんの養子になって、年上の甥っ子という立場になるんですが、その時期もなんだかあいまいに覚えているので、今後調べ直します。
大小の拵様ならびに(原作では漢字です)衣服又は髪形まで、下谷・本所はおれの通りにしたが、奇妙のことだとおもつていたよ。
近所では刀も服も髪形もおれの真似をしてたけど変だなあと思ってたよ、と言っています。まあ、そう言いつつ、自慢してるんですけどね。
このお話で個人的に気に入っているのは、6ページ最後のコマです。当時のお店って、昼間は外が明るいから、中はあんな風に、暗くてひんやりしていたんではないでしょうか。小吉と一緒にいるのは忠次郎です。
八十五話「江戸の町は火事が多い」に続きます。勝海舟と家事のエピソードもあるよ!