『夢酔独言』他勝小吉の著作物以外での、勝小吉関係の記述(とか漫画に関係あるくだりで出処を忘れそうなやつ)をこの記事にまとめます。何故なら資料が増えてきて、どの記述がどこに書いてあったか把握しきれなくなってきたので…。
この記事を読めば、マンガ『夢酔独言』のネタ元がだいたい分かります。
・『氷川清話』(講談社学術文庫)
※勝海舟の発言を書き記したとされるもの
一両一分出して日蔭町で買つた一筋の帯を、三年の間、妻に締めさせたこともあつたよ。この頃は、おれは寒中でも稽古着と袴ばかりで、寒いなどとは決して言はなかつたよ。米もむろん小買いさ。それに親は、隠居して腰ぬけであつたから、実に困難したが、三十歳頃から少しは楽になつたよ。
かつて親父が、水野のために罰せられて、同役のものへ御預けになつた時には、おれの家を僅か四両二分に売払つたよ。それでも道具屋は、殿様ダカラこれだけに買ふのだなどと、恩がましく言つたが、ずいぶんひどいではないか。その同役の家といふのは、たつた二間だつたが、その狭い所で同居したこともあつたよ。
(25ページ)
本当に修行したのは、剣術ばかりだ。全体、おれの家が剣術の家筋だから、おれの親父も、骨折って修行させうと思つて、当時剣術の指南をして居た島田虎之助といふ人に就けた。
(292ページ)
(柳亭)種彦は、二百俵の旗本で、高屋彦四郎といつて、漢学も和学もよく出来た。極めて怜悧な人であつたから、奥向(おくむき…大奥ないしその周辺のことか)へも出入して、幇間のごとく、如才なく立ち廻つた。そして古風な事が好きで、やれ近松だとか、やれ西鶴だとか始終騒いで居つた。おれの親父とは、懇意であつたから、折々は遊びに来て、おれを捕まへては、あなた本が好きなら私の宅へ来て御覧、いろゝゝ小説の考証もあるなどいつたり、また、あなた暇なら小説でも書いたらどうだなどいつて、小説の秘書のやうなものを貸したりした。
(304,5ページ)
昔、本所にきせん院といふ一個の行者があつて、その頃流行した富籤の祈禱がよく当たるといふので、非常な評判であつたが、おれの老父が、それと親しかつたものだから、おれもたびゝゝ行つたことがある。
(314ページ)
それゆゑに人は、平生の修業さへ積んでおけば、事に臨んで決して不覚を取るものでない。剣術の奥意に達した人は、決して人に斬られることがないといふことは、実にその通りだ。おれも昔親父からこの事を聞いて、ひそかに疑つて居たが、戊辰の前後、しばゝゝ万死の途に出入して、初めてこの呼吸が解つた。
(322ページ)
天保の大飢饉の時には、おれは毎日払暁に起きて、剣術の稽古に行く前に、徳利搗きといふことをやつたヨ。これは、徳利の中へ玄米五合ばかりを入れて、その口へはいるほどに削つた樫の棒で、こつこつ搗くのサ。おれは毎朝掌に豆の出来るほど搗いてこれを篩(ふるい)でおろし、自ら炊いて父母に供したことがあるヨ。
(355ページ)
・海舟語録(講談社学術文庫)
※『氷川清話』と同じく、勝海舟の発言を書き記したとされるもの
それで、一軒の旗本の所へ、三四人もサウいふ出入の小旗本がある事がある。己は、十三から半年ほど、叔父の所へ厄介になつて居たから、よくそれを知つて居る。
(53ページ)
※10代の麟太郎の動向の手がかりとして
ワシの家のグルリなどは、みなバクチばかりして居たが、ヲヤジが嫌ひだつたせゐか、ワシは幼い時から、ごくキライだつた。従弟に大変上手なものがあつたが、そのくせ人がいゝのだ。実に変なものだよ。
(97ページ)
八之丞サマといつて、一ツ橋のあとに直る人だつたが、大層、ワシがお気に入りで、十二までお附きだつた。その頃、隠居をするのは一年かゝるが、親仁も、私を八之丞サマにつけて、出世をさせる積りで願つたが、そのうちに死んでしまつた。それで出世が出来なくなつたので、又落ちぶれたのサ。
(239ページ)