マンガで読める『夢酔独言』

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勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

マンガ『夢酔独言』 二十話「どこへ行く」

 勝小吉自伝『夢酔独言』より、小吉14歳、一度目の家出エピソードその9です。

 約2ヶ月間放浪の旅を続けていた小吉ですが、石部(現代の滋賀県)で九州秋月藩の親方と出会い、「江戸へ帰れ」と言われます。

 

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※どーでもいいことですが、小吉が親方からもらった浴衣は「白地に大形のありし」とあり、これは大きめの模様が入った浴衣のことと推測しました(左側の模様が中型染で、それに対し、右側を大形と言ったと思われます。見ての通り、型のピッチが短いのが中型です。写真の切り取り具合が、メッチャ分かりよくないですが…)。

 


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    で、大形模様を再現するのに選んだ車輪つなぎ模様が、描くのメチャメチャ大変でした。二度と描かねえ。

 ちなみに、小吉の世話をしてくれた親方の着物の模様は観世水(かんぜみず)、もう一人の親方は青海波(せいがいは)です。

 

 

 

「それはよせ。上方はいかぬ所だ。それより江戸へ帰るがいい。俺が連れて行ってやろうから、まず髪月代をしろ」

とて向こうの髪結い所へ連れて行って、させて、

「その形(なり)では外聞が悪い」

とて奇麗の浴衣をくれて、三尺手拭いをくれた。

「何にしろ杖をついては埒が明かぬから、駕籠へ乗れ」

とて、駕籠を雇いて、乗せて毎日毎日よくよく世話をしてくれた。

※はやおきによる現代仮名遣いで引用(『夢酔独言』)

 

 

 

 小吉が石部で出会った親方達(『夢酔独言』では2人だが、『平子龍先生遺事』では3人)は、『平子龍先生遺事』に「日向秋月候の江戸下りと見え、長持の宰領」とあり、九州秋月藩参勤交代で江戸へ向かう途中の大名行列の、長持(箱型の荷物入れ)を運ぶのを担当していた人と思われます。

 小吉は親方の一人に面倒を見てもらい、石部(現代の滋賀県)から府中(現代の静岡県)まで戻ります。石部・府中間の距離移動時間は何故か前回すでに算出しており、約61.5里26町22間(約242.724㎞)で、駕籠で1日約20㎞移動したと仮定して、10日ほどで着いたと推測できます。

 

 

 

 親方が小吉を「抜け参り」じゃないかと言う場面がありますが(フィクション展開ですが)、抜け参りとは、当時めっちゃ流行ってた伊勢参りの形態のひとつで、父母または主人の許しを得ずに、子供や奉公人が家を抜け出して、伊勢神宮に参拝することです。道中は人々から施しをもらいながら進み、帰っても罰せらないという習わしでした。さすがに治安良過ぎ…というか、治安信用し過ぎと思います。

 小吉が持っていた柄杓は、伊勢参りが施しを乞うているのを示すアイコンであり、家出のいきさつ(姑であるお婆様と反りが合わず一人で江戸を出る)からしても、小吉はまさに抜け参り状態だったわけです。

 実際、小吉は御師(おんし…伊勢参りの世話をする神職)の世話になるにあたり、「江戸品川宿青物屋大坂屋の内よりぬけ参りに来た」と、抜け参りを騙っています。

 

 『江戸の旅とお伊勢参り』(洋泉社MOOK)巻頭の「伊勢参宮 宮川の渡し」(歌川広重)にも、抜け参りらしい子供が描かれており、やはり柄杓を持っています。

 


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    さすがに物騒だからなのか、複数人で描かれています。

 

 

 

「江戸へ行ったら送ってやろう」

とて、府中まで連れて来たが、その晩親方が博奕の喧嘩で大騒ぎができて、おれを連れた親方は、国(九州)へ帰るとて、くれた単物(ひとえもの…浴衣のこと)を取り返して木綿の古襦袢をくれて、すぐに出て行きおったから、今一人の親方が言うには、

「手前はこれまで連れてきてもらったを得(とく)にして、明日は一人で江戸へ行くがいい」

とて、銭を五十文ばかりくれおったが、仕方がないからまた乞食をしてブラブラ来て、所は忘れたが、ある崖のところにその晩は寝たが、どういうわけか、崖より下へ落ちた。

 

 

 

 親方と別れて放浪の旅を再開した小吉は、何故か崖の所で寝て崖から下へ落ちます。そりゃそうだ。

 

 ネームを書いた頃は、府中で親方と別れてから数日経ったように思っていたんですが、「その晩は」とあるので、小吉が崖の所で寝たのは、親方と別れた当日だったのかもしれません。「ブラブラ来て」の間に、シレっと何日か経ったかも分かりませんが。

 

 

 

 勝小吉もう一つの著作『平子龍先生遺事』での、同じくだりはこんな感じ。

 

何にもせよ、余り見苦し、髪月代にても致し、湯にも入り申すべしとて、種々世話を焼き、髪結を呼ばせ、月代を剃らせ、湯へ入らせなど致してくれ、あまり襦袢にては如何と、白地に大形のありし浴衣なぞくれ候。病気挙句歩く可哀さうなりとて、道中駕籠に乗せ、府中まで連れ、道々世話焼きくれ候処、駿河府中にて何か仲間の喧嘩にて、拙者を連れ来りし親方は日向へ引返しける故に、拙者に申聞け候は、もつれにて我は国許へ帰り、彼等両人は江戸へ赴くなり、されども汝がたよりにもならぬ者なり。我ゆふべ博奕に負けたり。汝が着物は我に渡すべし。此襦袢着て、明日此所をでて江戸へ行くべしとて、鳥目五百文貰い別れけり。

※『平子龍先生遺事』より引用

 

 サラッと、もらった銭の量が10倍になってますが…。

 

 なお、次回のくだりは、何らかの事情で『平子龍先生遺事』では語られていません。

 

 

 

 二十一話「箱根山での放浪(仮)」へ続きます。

 崖から転落して何か大事なものを失ったかもしれない小吉ですが、旅はまだまだ続きます。

 お楽しみに!