マンガで読める『夢酔独言』

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勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

マンガ『夢酔独言』 十九話「地獄で仏に会う」

 勝小吉自伝『夢酔独言』より、小吉14歳一度目の家出エピソードその8です。

 前回、白子で熱を出して1ヶ月ほど寝込んでいた小吉でしたが、回復し、府中まで戻って来ます。そこで新たな出会いが…。

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白子(現代の三重県)~府中(現代の静岡県)までの移動距離ですが、諸般の事情(原作との整合性維持のための漫画の時系列変更)が発生したため、省略します。とゆーか、原作『夢酔独言』ではここから怒涛の伊勢方面↔府中の往復が始まるので、真面目に計算すると時空が歪むおそれがあります。

 

 

 

 だんだん気分もよくなったから、そろそろとそこを出掛けて、府中まで帰ったが、とかく銭がなくって困るから、七月、ちょうど盆だから、毎晩毎晩町々をもらって歩いたが、伝馬町という所の米屋で、小さい小皿に挽き割りを入れて施行に店へ並べておくから、一つ取ったが、一つの皿に銭が一文あるからそっとまた一つ取った。そうすると、米を搗いていた男が、見付けおって、腹を立て、

「二度取りをしおる」

とて握りこぶしで、おれをしたたかぶちおったが、病後故道ばたに倒れた。

 ようよう気が付いた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようよう二本杖にて歩く時故、翌日は一日腰が痛くって、どこへも出なんだ。

※はやおきによる現代仮名遣いで引用

 

 漫画ではエピソードの順番を変えていますが(後で戻します)、原作では、白子の松原で寝込んだ後、伊勢へ行って、府中へ戻って来ます。

 

 一度目の家出中時期が明記されているのはここだけ。「七月、調度盆だから」とあり、旧暦なので、現代の9月頃だったと推測できます(出発したのは旧暦5月28日)。

 さすがに暑いからか、物乞いも夜にやっていたようです。

 盆の施行に並べられていた小皿を二重取りして、米屋さんに殴られる小吉。施行はするけど二重取りしたら殴るというアグレッシブさ…。

 

 夜は観音堂へ行って寝たとありますが、府中の与力のくだりでも「府中の宿の真中ころに、観音かなんかの堂があつたが、毎ばん夜は其堂の縁の下へ寝た」とあり、同じ場所と思われます。とゆーか、『平子龍先生遺事』では府中の与力も今回のエピソードも次に府中に来た時のエピソードも1か所にまとめられているので、実際は観音堂から動かずに、同じ時期に伝馬町や二丁町へ出掛けていたと思います。

 伝馬町での米屋のくだりは、『夢酔独言』のみのエピソードです。

 

 

 

 伝馬町を出た小吉は、二丁町遊郭へ行きます。

 

 それからある日の晩方、飯が食いたいから、二丁町へ入ったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだんもらって行ったら、曲がり角の女郎屋で、客が騒いでいたが、おれに言うには、

「手前は小僧のくせ、何故そんなに二本杖で歩く。患ったか」

という。

「左様でござります」

と言ったら、

「そうであろう。よく死ななかった。どれ飯をやろう」

とて、飯や肴やいろいろの菜(さい…おかず)を竹の皮に包ませ、銭を三百文付けてくれた。

 おれは地獄で仏に会ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が、

「手前は江戸のようだが、本の乞食ではあるまい。どこか侍の子だろう」

とて女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬の袖口の付いた白地の浴衣と紺縮緬の褌をくれたが、嬉しかった。

「今晩は木賃宿へ泊まって畳の上へ寝るがいい」

と言った故、あつく礼を言って、それから伝馬町の横丁の木賃宿へ行って泊まったが、毎日毎日府中のうちをもらって歩いたが、それより木賃宿へ夜になると泊まったが、しまいには宿銭やら食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物を六百文の質に入れてもらって、早々そこの家を発って、残りの銭を持って、上方へまた志して行くに、…

 

 二丁町遊郭は、幕府公認の遊郭です。

 小吉はそこで出会った女郎屋の客に、飯、肴、菜(おかず)、銭三百文(マンガ『夢酔独言』レートで約7500円)、浴衣、褌をもらいます。

 木賃宿へ泊まるように言われた小吉は伝馬町の木賃宿へ行き、夜は木賃宿、日中は物乞いという生活をしばらく続けます。木賃宿は客から木賃(薪代)を取って泊める簡素な宿ですが、ここに登場する木賃宿は畳敷きで、どうも、ツケで飲み食いできたようです。

 一度目の家出で、明記されている以外は、小吉は宿に泊まっていた気配はありません。気候が暖かいとはいえ、宿に泊まりたいとは思わなかったんでしょうか…単に宿代が無かったからかもしれませんが。

 小吉は単物(恐らくもらった浴衣)を質に入れて清算し、府中を出ます。

 

 府中宿内の位置関係はこんな感じ。一個の地図に全部載ってると便利なんですが…。


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…石部まで行ったら、ある日宿のはずれの茶屋の脇に寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几に腰を掛けて、酒を飲んでいたが、おれに言うには、

「手前は患ったな。どこへ行く」

というから、

「上方へ行く」

と言ったら、

「それはよせ。上方はいかぬ所だ。それより江戸へ帰るがいい。俺が連れて行ってやろうから、…」

 

 府中から石部(現代の滋賀県)まで行った小吉は、秋月藩の長持の親方二人と出会います。恐らく大名行列の長持(ながもち…収納木箱)を担当する人と推測できます。小吉は親方に、江戸へ連れて行ってやると言われますが…。

 

 

 

 ちなみに、府中・石部間の距離は、東海道を進んだとして、約61,5里26町22間(当時の案内図より算出。途中、宮・桑名間に9里の海路があるが、4時間ほどで着いたそうです。※ただし、小吉が利用したか不明)。㎞に換算すると、242,724㎞です。

 府中→石部へは、小吉が徒歩で行きました。白子を出た直後は一日1里(約4㎞)しか進めなかったようですが、少し回復してその倍と仮定して…1ヶ月くらいかかったことになりますが…。

 石部→府中は、秋月の親方が手配した駕籠に乗って行きました。小吉の倍~小吉のMAX速度の半分程度(小吉は1日歩いたが、駕籠だと営業時間的なものがあったと思うので)と仮定して、1日20里程度とすると、10日ほどで着いたと推測できます。

 ムチャクチャ時間かかってるように思えますが…。

 

 

 

 勝小吉もう一つの著作『平子龍先生遺事』では、白子で寝込んで回復したのち石部まで行き、秋月藩の親方と出会い府中まで連れて行ってもらい、二丁町のくだりへ続きます。

 

されどこれまで来りし事故、とてもの序(ついで)に中国四国九州までも廻り見申すべしと存じ、石部まで上りしに、日向秋月候の江戸下りと見え、長持の宰領三人参りかゝり、或茶屋に休み居けるが、拙者を見て、其方は煩ひしや。殊の外やつれしな。

〈中略。二十話のくだりがここに入る〉

或日ふと同所二丁町の廓へ貰ひに行きけり。或家にて近辺の田舎者女郎を揚げ騒ぎ居りしが、拙者を見て声を懸け、手前は伊勢参と見えるが、襦袢一つにてさぞ困るべし。この単物を遣すべしとて、女郎になにやらさゝやきしが、女の単物の袖口に緋縮緬を付け候を出して、是を着候へ。食事抔(など)も不自由なるべし、沢山たべ候へとて、いろ々々とくれ候て、手前は江戸のいづこと尋ね候故に、本所の由答へければ、町人か武士かと申す。町人の子の由答ふ。いやいや武士の子なるべし。最前より手前が物言を聞くに町人にてはなし。早く江戸へ帰るべしとて、銭三百文くれ申候。気の毒の人と存じ、礼謝し立出でければ、まだ々々遣る物ありとて、紺縮緬の褌をくれけり。それより府中の伝馬町と云ふ所に木賃宿ありしかば泊り、七月盆中故、毎晩々々貰ひに出でけり。

 

 『平子龍先生遺事』ではこの後、府中の与力のエピソード(マンガ『夢酔独言』十六話)へ続きます。

 

 

 次回、二十話へ続きます。

 石部で出会った親方に連れられて、府中まで戻ってきた小吉ですが…。

 お楽しみに!