マンガで読める『夢酔独言』

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勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

マンガ『夢酔独言』 十二話「江戸から上方へ一人旅」

  勝小吉自伝『夢酔独言』より、小吉14歳、一度目(当然二度目もある)の家出が本格スタートします。

  江戸本所の家を出て、東海道を進む小吉。小田原で旅人2人と出会い、3人で浜松まで行きますが、何やかんやですべて失ってしまいます。

 

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【前回までのあらすじ】

 13歳の年、姑のお婆様と折り合いが悪く、家庭内自炊を始めた小吉。醬油に水を入れたりもらい物のお菓子をくれないお婆様に、不満をつのらせていた…!

 

 

 

 14歳の年、小吉は家出します。

※漫画では夜に家を出ていますが、原作には時間がいつ頃だったかは明記されていません。真っ昼間だったかも。

 

  十四の年、おれが思うには、男は何をしても一生食われるから、上方(かみがた)あたりへ駆け落ちをして、一生居ようと思って、五月の二十八日に、股引を穿いて家を出たが、世間の中は一向知らず、金も七、八両ばかり盗み出して、腹に巻きつけて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、何だか心細かった。

 

※はやおきによる現代仮名遣いで引用

 

  上方(かみがた。小吉は京都をイメージしていたと思われる)を目指し、東海道を進み始めた小吉。

 

東海道

 五街道の一つ(他に中山道日光街道甲州街道奥州街道)。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る海道。幕府はこの沿道を全国譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。

 

 

 

 小吉の進んだルートを辿ってみましょう。

 

 江戸本所に住んでいた小吉。

    律儀に東海道の起点である日本橋から歩いたかは分かりませんが、こんな感じで、東海道へ入ったと推測できます。

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本所から品川

 

 

 

※追記:原作に「先づ品川まで道をきゝ々々して来たが、」とありますが、東海道の起点は日本橋ですが、地図を見ると高輪・品川辺りまではある程度街中で、品川から海沿いの一本道になるようなのです。

 なので小吉は、東海道を進めば上方へ行けるというおおまかな情報だけ知っていて、はっきり東海道と確信して進める品川まで、人に道を聞いて歩いたのかもしれません。

 あるいはそれすら知らなくて、道を人に聞きながら、品川辺りから東海道が本格的に始まって、そこを進めば上方に行けると知ったのかも。

 

 

 

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江戸~藤沢 

 

 5月28日本所品川藤沢と進んだ小吉。

 江戸時代当時のガイドブックによると、日本橋から品川、(川崎神奈川保土ヶ谷戸塚を経て)藤沢までの距離は合計12里18町。1里=4㎞1町=109mとして、約50㎞歩きました。

 めちゃくちゃ歩いている(「むやみに歩行て」と言っているだけのことはある)…!

 

 

 


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  このコマは藤沢から江戸方面を振り返る小吉ですが、右の絵図になるべく忠実にしました。赤丸が一里塚です。※途中の絵なので、仕上がったのと違って小吉が荷物を持ってたり、袖が短かったりしてますが、気にしないでください。修正液は優秀です。

 一里塚。『絵図に見る伊勢参り』より。

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 一里塚は、その名の通り、1里ごとに海道の両端に設けられた塚です。

 手持ちの絵図では、植わっている木の種類も書いてあって興味深いです。

 

 

 

 それからむやみに歩いて、その日は藤沢へ泊まったが、翌日早く起きて宿を出たが、どうしたらよかろうと、ふらふら行くと、町人の二人連れの男が跡より来て、おれに、

「どこへ行く」

と聞くから、

「あてはないが上方へ行く」

と言ったら、

「わしも上方へ行くから一緒に行け」

と言いおった故、おれも力を得て、一緒に行って、小田原へ泊まった。その時、

「明日はお関所だが、手形は持っているか」

と言う故、

「そんなものは知らぬ」

と言ったら、

「銭を二百文出せ。手形を宿でもらってやる」

と言うから、そいつが言う通りにして関所も越したが、

 

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藤沢~小田原

 

  藤沢を出て、2人連れの旅人と出会った小吉。一緒に小田原まで行きます。

  この間、7里半27町約33kmです。

 

    小吉が初日に50km歩いたことを考慮すると、藤沢から小田原まで、1日で着いたかもしれませんね(それを意識して原作を読み返すと、ストレートにそう書いてあるような…)。

 

 そしてまさかの通行手形を知らない小吉。「宿でもらってやる」と言われるまま、200文渡しますが…。

    通行手形は、庶民は帰依する寺から、武士は奉行所から発行してもらっていたようですが…。

    ちなみに、武士は許可なしに外泊してはいけません。

 

 

 

油断はしなかったが、浜松へ泊まった時は、二人が道々よく世話をしてくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たが、その晩に着物も大小も腹にくくし付けた金もみんな盗られた。

 朝、目が覚めた故、枕元を見たら何にもないから、胆が潰れた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は、

尾張の津島祭りに間に合わないから、先へ行くから、跡より来い」

と言って発ちおったというから、おれも途方に暮れて、泣いていたよ。

 亭主が言うには、

「それは道中の護摩の灰というものだ。私は江戸からのお連れと思ったが、何にしろ気の毒なことだ。どこを志して行かしやる」

とて、信実に世話をしてくれた。おれが言うには、

「どこというあてはないが、上方へ行くのだ」

と言ったら、

「何にしろ襦袢ばかりにては仕方がない。どうしたらよかろう」

と、途方に暮れたが、亭主が柄杓一本くれて、

「これまで江戸っ子が、この海道にてはままそんなことがあるから、お前もこの柄杓を持って、浜松のご城下、在とも一文ずつもらって来い」

と教えたから、…

 


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小田原~浜松

    小田原から浜松まで進んだ小吉一行。

    この間34里206町45間(1間=約1.8m)約161km

    2人連れと合流して1日に33km歩いたことから、ここまで5日かかったと推測できます。

 

    そして「油断はしなかったが」「少し心がゆるんで」手持ちアイテムが襦袢柄杓(NEW!)だけになってしまった小吉。 

 

 

 

    ちなみに、「津島祭り」は、位置的にはここ(津島天王)で行われる祭りです。

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浜松と津島天王  

 

 

 

 

    十三話「はじめての物乞い(仮)」 に続きます。   

    小吉が、初めての物乞いにチャレンジします。

    ネームのお話と、大幅に変更しています。

    お楽しみに!