マンガで読める『夢酔独言』

マンガで読める『夢酔独言』

勝海舟の父親・勝小吉の自伝『夢酔独言』がマンガで読めるブログです。

昔の人はチャラかった!? カッテンティーゲが見た意外な幕末の日本人像

 ファン・カッテンティーゲは、幕末に長崎海軍伝習所で、オランダから派遣されて武士たちに航海術などを教えました。彼は二か月間の長崎滞在中の日記を、1860年に出版しました。

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 その中でカッテンティーゲは、当時の日本人を総括して、

「日本人チャラ過ぎ!いい加減!なんでも茶化してくる!(特に役人が、会議中に)」

と言っています。※「チャラ過ぎ」は現代語訳です。実際には、「軽薄」と書いています。

 

 ※早速ですが、先に勝海舟のエピソードを書いたらそこそこの文字数になってしまったので、先んじてそこだけ公開します。

 

 

 

勝海舟とカッテンティーゲ 

 

 『長崎海軍伝習所の日々』には、勝海舟も登場します。

 

…艦長役の勝氏は、オランダ語をよく解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。しかし私をして言わしめれば、彼はすこぶる怜悧(れいり=かしこい)であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかを直ぐ(すぐ)見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである。

 

 また、二ヶ月の任期を終えて帰還するときには、

私は汽船ナガサキ号(電流丸)に乗って、艦長勝麟太郎を見送ったが、この尊敬すべき日本人とは、おそらく二度と会う折もあるまい。私は同人をただ誠実かつ敬愛する人物と見るばかりでなく、また実に真の革新派の闘士と思っている。要するに、私は彼を幾多の点において尊敬している。私がいよいよ彼の乗船と訣れて(わかれて)岐路につこうとした時、彼は私に七発の礼砲を放ってくれた。

 

 さすが教科書に載るような我らが息子。学校時代から、その才覚があらわれていたようです。

 

 

 

 また、カッテンティーゲは勝海舟のインタビュー本・『氷川清話』に登場しています(『氷川清話』での表記は「カツテンテーキ」です」)。

 

 安政四年(1857年)の秋、海舟=麟太郎はある休日に、「そうだ!遠洋航海をやろう!」と思い立ち、カッテンティーゲ先生に許可を願い出ます。

「秋は台風シーズンだからやめとけ!(正確には、「ここ数日悪天候だから延期しなさい」)」と言われますが、

「海軍にいるんだから、難破して死ぬのは覚悟の上だ!」

と、航海を強行します。

 

生徒のくせしてこの気概。

迷惑以外の何物でもありません。

 

乗るのは学校の船です。本当に難破したら、困るのは先生です。これが原因で国際問題に発展したらどうするんだ。

 

「くれぐれも遠出はしないように」とカッテンティーゲ先生。

 当然のように忠告を聞かず、長崎から五島列島まで船を進める麟太郎船長。暴風に巻き込まれ、舵は壊れ、船に穴が開いて海水が船内に入ってきます。乗組員は、技術も経験もない日本人ばかり。海岸へ寄せようとしてもすぐに沖へ流され、水深が深すぎて錨(いかり)も使えません。

 万事休す。

 

 そこで麟太郎は叫びます。

「自分が愚かで教師の命令を用ゐなかつたために、諸君にまでこんな難儀をさせる。実に面目もない次第だ、自分が死ぬるのは、まさのこの時だ」

(『氷川清話』より)

 船長はそれでいいかもしれませんが、巻き込まれて死ぬ乗組員はたまったものじゃありません。

 

 ともあれ何故かこの言葉に励まされて乗組員が頑張り、翌日長崎に帰った麟太郎一行。

 帰って来た麟太郎に、カッテンティーゲ先生は

 笑ひながら「それはよい修行をした、いくら理窟は知つて居ても、実地に危い目にも遇つて見なければ船の事はわからない、危い目といつても十度が十度ながら各別なので、それに遭遇するほど航海の術は分かつてくるのだ」と教へてくれた。(『氷川清話』より)

心が広すぎる…。

あるいはキレると笑いだすタイプの人だったか、

麟太郎がいい感じに解釈したか、どれかだとは思います。

 

 ちなみに勝海舟は船に弱くて、航海中は、ほとんど船酔いしていたらしいです。自分ではそんなこと、一言も言ってませんが。